columnワンダーチャイルド
ワンダフルという言葉を用いてワンダーチャイルドの特徴を紹介します
『ワンダーチャイルド』 (ジョン・ブラッドショウ「インナーチャイルド」より)
子どもは本来驚きに満ちており、自発的で、今を生きています。
ワンダフルという言葉を用いてワンダーチャイルドの特徴を紹介します。
ワンダフル W・O・N・D・E・R・F・U・L という言葉の一つ一つの文字が、
子どもの本来の特性を表す言葉の頭文字になります。
ワンダフル
W・Wonder 驚き
O・Optimism 楽天性
N・Naivete 純真さ
D・Dependence 依存
E・Emotions 情動
R・Resilience 回復力
F・Free Play 自由な遊び
U・Uniqueness 独自性(唯一無二)
L・Love 愛
驚き Wonder
自然なままの子どもにとっては、すべてが興味にあふれ、刺激的です。子どもは五感で驚きを感じます。これは、知ること、実験し探索すること、見て触れることへの子どもの生まれながらの欲求の現れです。赤ちゃんは好奇心によって、自分の手、鼻、唇、生殖器、手の指、足の指を発見していきます。最終的には、好奇心が子どもに自己(Self)を発見させるのです。
実験することや探索することは、子どもを危険にさらすこともあります。本来持っている驚きの感情を抑圧されて育った親は、同じように子どもを抑圧するでしょう。その結果、子どもは探索することや危険を冒すことをやめたり、恐がったりするようになります。子どもにとって人生とは生き抜くための冒険の場というよりは、むしろ解決されるべき問題となります。さして、子どもは退屈で安全な人生を演じることになるのです。
驚きと好奇心は、正常な発達と適応にとって重要なものです。
それらは子どもに基本的な生活知識を獲得させ、生存競争の仕組みを教えます。
驚きと好奇心はまた、私たちの視野を広げるための生命エネルギーです。
私たちはこの生命の息吹を必要とします。それは私たちの絶え間ない成長に不可欠であり、詩人、芸術家、独創的な思想家の仕事の原動力でもあります。チャールズ・ダーウィンやアルバート・アインシュタインは、世界の神秘の奥底にひそむ謎に対する、子どもらしい驚きと好奇心に満ちていました。
楽天性 Optimism
子どもが本来持っている生命の火花は、いわば楽天的に、子どもを探索へと駆りたてます。養育者が一貫性のない人たちであったとしても、子どもは欲求を満たすために、自分の周囲にあるものを信頼するようになります。子どもは、この世は友好的で希望に満ち、可能性を秘めているということを生得的に信じています。この生まれつきの楽天性と外界を信頼する特性は、私たちの持って生まれた才能の中核をなし、そして、いわいる「子どもらしい信念」の支柱となるのです。
子どもはこの楽天性と信頼ゆえに、養育者に傷つけられることがよくあります。完全に信頼しきっている時こそ、暴力や虐待に傷つきやすいのです。ほかの動物と違って人間の乳児は、生き延びるためにしなければならないことを指示する「本能のコンピューター」を持っていません。子どもたちには学習することが必要なのです。そして、その学習は彼らの養育者にかかっています。子どもは養育者とのかかわり合いをとおして、内なる力を育てます。本来持っている自然の力には子どもたちがそれぞれの内なる力を発達させるための、年齢に適応した学習準備態勢が備わっているのです。
子どもが虐待され、侮辱された時、開放的な姿勢と人を信頼する心は死に絶えます。信頼することや楽天的に前進していくことを許す、養育者との絆が切断されるのです。養育者の保護能力が頼りにならなくなる時、子どもは用心深く、そして不安になります。もしもその断絶が慢性的に繰り返されれば、悲観的になるでしょう。子どもは希望の感覚を失い、欲求不満を満たすためには細工をすることが必要だと思い込むようになります。エネルギーを外の世界に直接働きかけるために使う代わりに、実際には自分自身でできることを、養育者にしてもらうようにするために使うのです。
楽天性と信頼は、親交の魂です。人が人と交流を持つ時、傷つくこともあるという危険性を負わなければなりません。完全に人を信頼するために十分な情報を集めることは不可能なので、ある程度の情報をもとに信頼するというリスクです。私たちの人生には楽天性が必要です。されによってすべての現実を、最終的には肯定的な価値を持つものとして理解します。楽天性は明るい面を見させるのです。
純真さ Naivete
子どもの純真さは、彼らの魅力の一部であり、天真爛漫さの中核です。子どもは、今を生き、快楽を求めます。子どもたちはクリストファー・モーレイが詩の中で示しているように、人生を「奇妙ななぞなぞ」として受け入れます。子どもの「奇妙な神性」は、正しいか誤りか、善か悪かといった感覚が欠けていることから引きおこされます。
子どもたちにとっては、生きることそのものが最優先です。初めのうちは、彼らの動きには方向性がありません。なぜなら、あらゆることが興味の対象で、どれか一つを選ぶなどということができないからです。子どもは禁じられた場所へ行き、危険なものに触れ、有毒なものを口にします。このため、子どもたちには注意と世話がいつでも必要となり、養育者は「子どもに安全な」家を用意しなければなりません。そのためには、養育者は時間をかけて子どもに注意を傾ける必要があるので、とても忍耐強い人でさえも、何度も怒りを感じることがあるでしょう。もちろん、子どもが興奮して楽しそうにしていることに対して養育者が怒れば、子どもは驚き混乱します。
養育者には忍耐強さと理解力が必要です。これらの特性が欠けている養育者は、子どもにあまりにも多くのことを期待するでしょう。私がよく知っている身体的虐待のケースのほとんどにおいて、虐待する親は、子どもが故意に悪意のあることをしたのだと思い込んでいました。彼らは子どもに年齢以上の成熟を期待していたのです。
子どもはまた偽りの純真さと無邪気さとで小細工することを学ぶこともあります。おろかなふりをするのがその一つです。見捨てられることを恐れる子どもにとって、ヒステリックに泣いたり懇願する姿は、おろかなふりをする方法の一つです。このような行動をとることによって、子どもは成長すること、責任を負うこと、リスクを負うことを避けられるのです。
あなたの中のワンダーチャイルドの純真さ、無邪気さは、あなた自身の再生過程において大きな財産になりえます。純真さは、素直さ―教えられやすい状態―の主要な構成要素です。
依存 Dependence
子どもたちは生まれながらにして依存的で、どん欲です。自分の意志でそうなのではありません。おとなと違って子どもは、自分自身の力で欲求を満たすことができません。したがって、欲求を満たすためには、他者に頼ることが必要なのです。不幸なことにこの他者への依存は、子どもの最大の弱みです。子どもは自分の欲しいものや自分が感じているものさえもわかっていません。良きにつけ悪しきにつけ、子どもの人生は、養育者の養育能力によって強い影響を受けるのです。つまり、子どもの各発達段階における欲求に養育者が気づき、満たすことができるかということに左右されるということです。もし、養育者のインナーチャイルドが傷ついているなら、子どもの欲求を満たすゆとりはありません。それどころか、彼らは子どもの欲求に対して怒るか、自分の延長として子どもを育て、自分自身の欲求を満たそうとするでしょう。
ワンダーチャイルドは依存的です。
なぜなら、彼らは成長または成熟への過程にあるからです。各発達段階はおとなへと一段ずつ進むステップです。適切な時期に適切な順序で欲求が満たされなければ、子どもは次の段階での課題を満たすのに必要な資源を持たないまま進むことになります。初めの小さな間違いは、後に大きな災いをもたらすのです。
健全な人生には、絶え間なく成長しているという特徴があります。
驚き(wonder)、依存(dependence)、好奇心(curiosity)、楽天性(optimism)は、成長し人生を開花させるのに非常に重要です。
ある意味では、私たちは一生、依存心を持ち続けます。私たちは常に愛と人間関係を必要としているし、ほかの誰をも必要とせず、自分だけで十分な人はいないのです。
ワンダーチャイルドの依存心は、他人に対する愛着を形成させ、触れ合う心を育みます。私たちは成長するにつれて、自分が必要とされることを欲します。健全な成長のある時点で、私たちは子どもを産み、生命を育む時期をむかえます。これは生物としての宿命です。依存と非依存はバランスの問題です。
インナーチャイルドが依存要求の発達段階においておざなりにされて傷つけられると、人は孤立して引きこもるか、誰かにべったりくっついてしまうことになるでしょう。
情動 Emotions
笑う、涙を流して泣くという二つの情動は、人間の乳児に特有のものです。「子どもにとって、現実であれ、想像されたものであれ、子ども自身の創造であれ、なんにでも笑いとユーモアを見出すことは自然だ。彼らは喜劇的要素を非常に喜ぶ」と、人類学者のアシュレイ・モンタギューは書いています。ユーモアは、私たちが幼いころから持ちうる最も豊かな資源の一つです。人間だけが「笑う能力」を持つ、と哲学者たちは長い間指摘してきました。
ユーモアの感覚は、生きていくうえで必要なものです。ユーモアの感覚を持っていると、人生はより耐えやすいものになります。カウンセラーとして、私は常にクライエントがよくなり始める瞬間を確認することができます。それはユーモアの感覚を持ち始める時です。自分自身を非常に深刻に捉えるのをやめるのです。
モンタギューによれば、子どもたちはおよそ生後12週間ぐらいから、ユーモアの感覚を持つそうです。愛され、よく世話されている赤ちゃんの顔と目を見てごらんなさい。そこには自然な心の喜びが見られるでしょう。子どもたちが群れて飛び回っているのを観察すると、彼らが笑いそのものを喜んでいる姿に気づくことでしょう。
子どもの楽しさと興奮は、簡単にしぼんでしまいます。もし親の傷ついたインナーチャイルドが笑い声を押し殺してきたのであれば、自分の子どもたちのそれも押しつぶすでしょう。このような親は「大声で笑うな」「ここで騒ぐのをやめなさい」「うるさい」などの言葉で子どもに注意します。私自身、心の底から笑ったり、踊ったり、歌ったりすることがなぜこれほど難しいことなのか、しばしば不思議に思いました。私は酔っている時には、それらのことが素直にできたのですが、しらふの時には、硬直してしまったのです。
笑いや楽しむことを抑圧された子どもは、陰気で禁欲的になります。典型的に彼らは、子どもたちの興奮と大きな笑い声を大目に見ることのできない、イライラした親や教師や伝道師になります。
笑いの反対の情動表現は泣くことです。人間は涙を流す動物です。アシュレイ・モンタギューによれば、泣くことは笑うことと同じように社会的にも心理的にも役立つことなのです。笑いと喜びとが私たちを他人に引きよせるように、涙はいたわりと同情を呼びおこします。笑いと涙には、人間の乳児にとって生き残るための特別な価値があるのです。喜びの声とおかしさにふき出す声は、私たちを親密にさせ、すべての乳児が必要とする共生的な絆を確立します。そして、涙は私たちを救助と慰めへと向かわせる苦痛の信号なのです。
ほかの人の反応を引き出す感情表現としての笑いと涙は、どの時代においても人間のコミュニケーションの発展に多大な影響をもたらしたといえるでしょう。とりわけ涙は、あわれみ深い生き物である人間が進化する過程で、力強い役割を演じてきました。「涙を流す自由は、個人の健康の一因となり、他者の幸福に私たちを深くかかわらせることにもなるだろう」とモンタギューは言っています。
泣くことを恥ずかしいことだと教え込まれた子どもは、ひどい心の損傷を受けています。ほとんどの家庭において子どもの涙は、親の傷ついたインナーチャイルドの解決されていない悲哀の部分に触れます。ほとんどのアダルトチャイルドたちは涙をおし殺してきたのです。
親は子どもたちを強くするという思い込みで、意識して涙を流させないようにしてきました。これが誤りだということは断言できます。この本は、涙を十分に表現することを許されてきた人々には不必要でしょう。私が「オリジナルペイン・エクササイズ」と呼ぶものは、悲哀の作業を中心としたもので、傷ついたインナーチャイルドを再生させることが鍵となります。
回復力 Resilience
回復力とは、環境によって引きおこされた苦悩から立ち直る能力です。子どもたちは生まれつき回復力を持っています。若ければ若いほど強い回復力を持っているのです。子どもが食べることや歩くことを学習するのをみれば、子どもの回復力は明白です。
私は生後20ヶ月の赤ちゃんが、寝いすの上によじ登るのに挑戦しているのを見ました。彼女はもうすこしで上れるというところで、うしろにひっくり返りました。二、三回目に彼女はしばらく泣き、それから手近な課題、寝いすの上によじ登ることを再び始めました。そして少なくとも五回目の挑戦の後、ついに彼女は成功したのです。彼女はそこに数分間座って、自らの成功を喜びました。さらにペットの大きな犬がその部屋にはいってきた時、彼女は注意深く犬を見て、この奇妙な生き物を調べるために寝いすからおりました。彼女が近づくと犬はふざけて彼女を突きました。これが彼女を怒らせました。彼女は犬の鼻をポンとたたいたのです。この時、彼女は自分の三倍もの動物の鼻をたたいたわけです。まさに勇敢そのものでした。
実際、すべての子どもには勇気があります。私たちおとなは、子どもと比べれば巨人です。子どもの強情さを堕落や無作法とみるのではなく、勇気として理解しなければなりません。子どもには回復力があり、勇気があります。勇気(courageous)という言葉は、ラテン語の心(cor)からきています。子どもは心を持っています。彼らは勇気ある冒険者です。偉大なアドラー派心理学者であるドルフ・ドレイカースは、不正なことをする子どもたちは、みな勇気を取り上げられてしまったのだと信じていました。勇気を奪われた子どもは、欲求を満たすための細工をしなければならないと信じ込むのです。
回復力と密接に関連するものとして行動の柔軟性があげられます。
子どもは柔軟に、社会に適応するために必要な、あらゆる行動を学習していきます。このような柔軟性はほかのほとんどの動物とは相反する人間の特徴です。そして、それは精神の健康を示す強力なサインです。
その同じ回復力と柔軟氏が、私たちの不健全な方法で適応する能力を抹殺してくれます。私が傷ついたインナーチャイルドのせいであると述べてきた行動はみな、適応行動であり、インナーチャイルドの回復力と柔軟性は病気、混乱、情緒的に見捨てられることから私たちを救ってくれるのです。しかし、私たちがこのダイナミックな回復力のエネルギーを成長と自己実現のためではなく、単に生きるだけに使わなければならないのは不幸なことです。
回復力は私たちの真の自己の中核的な特性なので、私たちは傷ついたインナーチャイルドを再生し擁護するにつれて、その回復力を取り戻すことができるのです。しかし、それには時間がかかるでしょう。なぜなら、傷ついたチャイルドは、おとなとしての私たちが自分を保護してくれるのだと信頼することを学ばなければならないからです。
守られ安全であると感じると、本来持っている驚きと回復力が現れて、満開の桜のように生き生きとしてくるのです。
自由な遊び Free Play
子どもは生まれつき自由の感覚を持っています。そして、安全であると感じた時には、非常に自発的に活動します。これらの特性、つまり自由と自発性が遊びの構造を形づくります。哲学者プラトンは子どもたちの飛び跳ねる欲求に、純粋な遊びの原型を見出していました。それは安全と危険の境界を試すことにもなります。自由な遊びは、子どもが単なる行為の繰り返しを超越する一方法です。私たちは成長すると、しばしばこの遊びの特質を見失い、ばかばかしいことだと決めつけるようになります。つまり、遊びは子どもたちのためのもので、おとなはそんなことはしないものだということです。
不幸なことに、アメリカに住む私たちは、自由で自発的な遊びを、勝利のための積極的な攻撃性へと堕落させてきました。本当の自由な遊びとは、純粋な楽しみと喜びの活動です。発達段階の後期になると、それは特定のゲームをするために要求される技術と、スポーツマンシップによってもたらされる喜びとなります。
自由な遊びは私たちの本質的な特性の一部です。ほかのすべての動物も遊びをしますが、人間の子どもたちの遊びはより広い範囲におよんでいます。「子どもの遊びは、他の生物の能力をはるかに超えた創造の飛翔である」とアシュレイ・モンタギューは述べています。
想像は、子どもたちの遊びの中で本質的な役割を担っています。私は自分の子ども時代に創作した想像上のものを覚えていますが、そのほとんどはおとなの生活への準備でした。私たちは「おとなごっこ」して遊び、ママやパパであることがどんなことなのかを想像していたのです。
子どもたちにとって、自由な遊びは真剣な取り組みで、それは後の人生の基礎となります。おそらく私たちが子どもの時に安全で快適な遊びをさせてもらえたら、おとなになって非創造的な遊びには頼らずにすむことでしょう。非創造的な遊びは、まさに満たされなかった子ども時代の欲求の代用なのです。
もし私たちが子ども時代を、自由で創造的な遊びの時代とみなすなら、人間とは遊びを楽しむものだと理解できるでしょう。人間の最大の偉業は、偉大な発明や発見や理論のきっかけをつくる「想像の飛翔」です。
哲学者ニーチェがかつて述べたところによれば、私たちは成熟するためには、遊んでいる子どものような真剣な感覚を取り戻さなければならないのです。
独自性(唯一無二) Uniqueness
子どもは未熟ですが、自分の全体性、つまり自分らしさを生物的に感じとっています。言い換えれば、子どもは自分と自分の心がぴったりと一致し、統一がとれていると感じています。統一がとれた全体性を持っているという感じは、本当の意味での完成に結びつきます。そして、この感覚において、すべての子どもは完全無欠なのです。
統一のとれた全体性は、また、それぞれの子どもを特別で、唯一無二で素晴らしい存在にします。この世に寸分違わずそっくりな人は一人もいません。この特異性はそれぞれの子どもを本当に貴重な存在にするのです。
貴重であるということは「唯一無二で、価値がある」ということを意味します。
宝石や金は貴重ですが、すべての子どもはそれよりもはるかに貴重なのです。
子どもは生まれた時に、本質的に自分が貴重な存在であることを感じています。
「赤ちゃん陛下」とフロイトは言いました。
子どもが生まれながらに持っている自己に対する価値と尊厳の感覚は、とても不安定なものです。ですから、世話をしている養育者がその場その場で共感し、フィードバックして子どもに応えてあげる必要があるのです。もし養育者が正しく、そして愛情をこめて子どもをあるがままに受け入れてやらなければ、子どもは自分が特別でかけがえのない存在であるという感覚を失ってしまうでしょう。
また、子どもは生まれつき精神的な存在でもあります。
私は、全体性と精神性は同意語だと考えています。子どもというものは汚れのない神秘的な存在です。クリストファー・モーレイの詩は、いかに子どもの「奇妙な神性」が「保たれるのか」を指摘しています。しかし、それは無防備で方向性のない精神性なのです。後にそれは成熟の核となって内省する精神性となります。
精神性は私たちの内面において最も深く、最も信頼すべきもの、真の自己にかかわっています。
私たちが精神性に満ちている時、私たちは独自性と特異性に結びついています。それは私たちの基本的な存在性、「自分らしさ」なのです。また精神性は私たちが、私たちよりも偉大な何ものかに根ざし結びついているという感覚も含んでいます。子どもたちは生まれながらに信じる心を持っています。彼らは、彼ら自身を超える何者かが存在するということを知っているのです。
私たちが持つ「自分らしさ」が、人間の神性の核を構成しているのだと私は信じています。
「自分らしさ」の感覚を持つ時、人は自分自身と一体化しており、自己を受け入れているのです。
子どもは生まれながらにこの感覚を持っています
。健康な子どもを見れば、その子が「僕は僕なんだ」と言っているのがわかるでしょう。
興味深いことに、燃えるしばの中の炎のうちに神が顕現する場面で、神は「私は、“在すもの(いますもの)“である」とモーゼに語りました(出エジプト記、第3章14節)。最も深い意味での人間の精神性とは、この「自分らしさ」なのです。
これが価値と貴重と特異性を包含しているのです。
新約聖書には「たった一人のひと」に手を差しのべるイエスの話が数多く出てきます。「たった一人の人」とは、在すものであるところの彼そのものであり、かつてなく、また繰り返されることのない存在なのです。
愛 Love
子どもは、愛し慈しむように生まれついています。
しかし子どもはまず、愛することができるようになる前に愛されなければならないのです。
子どもは愛されることによって、愛することを学びます。
「純粋な人間的な欲求の中で、愛する欲求は最も基本的である。
それは人間性をつくる欲求であり、ほかのすべての欲求よりも、それは私たちを人間にする」とモンタギューは書いています。
成熟した利他的な感覚で愛する能力を持った子どもはいません。
むしろ子どもは、年齢に応じた方法で愛します。子どもの健全な成長は、無条件に誰かに愛され、受容されることによって促されています。
この欲求が満たされた時、子どもの愛のエネルギーは解放され、他者を愛することができるようになるのです。
子どもが自分自身を愛してもらえなかった時、「自分らしさ」の感覚は傷つけられます。
愛されなかった子どもは依存的になりすぎるために、自己中心的になり、真の自己はけっして現れません。
傷ついたインナーチャイルドによる汚染は、この自己中心的な適応の結果なのです。
無条件に愛されたことがないと、最も深い剥奪に苦しむことになります。
剥奪され傷ついたインナーチャイルドを内に秘めたおとなに届くのは、
他人の世界からの非常に微かなこだまだけです。
愛への欲求はけっして去ることはありません。渇望は残り、傷ついたインナーチャイルドは私が述べてきたように、この虚しさを埋めようとするのです。
あなたの傷ついたインナーチャイルドを再生し、擁護する過程の中で、
あなた自身がインナーチャイルドの渇望する肯定的で無条件の受容を与えるのです。
そうすれば他者のあるがままを認知し、愛することができるようになるでしょう。
わたしたちの本質♪
すべての人にあります♪